惟喬親王のこと

古今和歌集を季節の移ろいとともに読み直している。いつも通り筆写しているのだけれども、

 

僧正遍昭によみておくりける

 

 桜花散らば散りなん散らずとて

             ふるさとの人の来ても見なくに

 

 春上の七十四番歌に行き着く。

 

 惟喬親王といえば、藤原氏との位争いに巻き込まれた悲運の皇子として語られている。歌を素直に写してみると何とも粘っこい感覚にとらわれてしまうのは彼のこうした経緯を知っているからかと思う。

 

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 惟喬親王のことは『平家物語』の巻八、「名虎」に詳しく、惟高の母親は紀名虎の娘で、対抗馬の惟仁親王藤原良房の娘が母親でした。文徳天皇は聡明な惟喬を愛しましたが、政界の実力者である良房の意向を無視できず、生後三か月の惟仁を皇太子にします。これが清和天皇となるわけです。

 

 そもそも平家物語の「名虎」は木曽義仲都落ちした平家が置いていった四宮を皇位に就ける話からの展開、宮の順序を飛び越えてというつながりと、惟仁親王清和天皇、つまり源氏の始祖であるという点からのピックアップなのです。

 

8月10日、木曾義仲 は朝日将軍という院宣を下された。越後の国を賜るも、嫌だというので伊予の国を、また、源行家 も備後の国を嫌がり、備前の国を賜った。
8月16日、平家一門 160人の官職が停止された。ただし、平時忠平信基平時実 の 3人は、安徳天皇 と 三種の神器を都へ還す役として、そのままにされた。
8月17日、平家は筑前の国の大宰府に到着。都から着き従って来ていた 菊池高直 が離脱し、肥後の自分の城に閉じこもって出てこなくなった。
8月20日、故高倉上皇の四の宮 尊成親王が、後鳥羽天皇 となった。摂政は 藤原基通 が返り咲き。

 
昔、文徳天皇の急死の際、たくさんの皇子の中から次の皇位を決めなければならなくなった。その中で、一の宮 惟喬(これたか)親王と二の宮 惟仁(これひと)親王に絞られたが、どちらにとも決め難たかった。とうとう「臣下では決められない。競馬と相撲で 2人の運をはかって決めよう」ということになった!
 
最初の競馬では惟仁親王が勝った。次の相撲では、惟喬親王家から名虎という力士が選出され、惟仁親王家からは能雄の少将という、背が低くいが、夢の御告げがあったという者が名乗り出た。名虎が優勢になるや、惟仁親王の母 染殿が「負けそうですわ、どうしましょう、どうしましょう」と慌てると、恵亮和尚は独鈷で頭を割って脳を砕き、護摩を焚いて祈祷した。すると、能雄が相撲に勝ったのである。こうして、惟仁親王皇位に就く。後の清和天皇である。皇位継承は、この場合だけは法力によるものかもしれないが、その他は皆、天照大御神* の計らいといわれている。
 

平家は筑紫にて、高倉上皇の四の宮が即位し、後鳥羽天皇 となったことを知る。

 

 とまあ名虎に関しては原文を読んで頂ければと思うのですが概略を。名虎の凄いのは、この恵亮和尚の独古で自分の頭を割って、脳髄を護摩と一緒に炊いて祈祷したという下りですが...。

 

 話を惟喬親王に戻します。

 惟喬親王は、在原業平と親交が深く、『曽我物語』にはそのあたり、つまり惟喬親王のその後の話が詳しく載せられています。この話はその後、歌舞伎の『倭仮名在原系図』に脚色されて用いられることとなります。

「御位争い」と皇位継承を話題にした作品を呼ぶのもこの話を代表的な話として考えているからです。

 

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歌舞伎用語案内

 

 

 天皇になれなかった悲運の皇子惟喬親王六歌仙在原業平と交野が原の別邸、“渚の院”で狩りをしたり歌詠みをして気をまぎらせました。

 惟喬親王の母静子と業平の妻が叔母・姪の関係もあつて、業平は惟喬親上の側近中の側近であつたようです。
 その時詠んだ在原業平の有名な歌が次の歌です。

  “世の中に 絶えて桜のなかりせば、春の心はのどけからまし”
    
 桜は藤原氏ですし、春の心は親王の心なのでしょうが、これ教材にもなってますね。

 

 惟喬親王はその後二十九歳で出家、隠棲します。『伊勢物語』八十三段ではそこに、業平が尋ねていく場面が描かれています。「小野の雪」ですね。高校の教材になってますね。

 

 

 むかし、水無瀬にかよひ給ひし惟喬の親王、れいの狩しにおはします供に馬頭なる翁つかうまつれり。日ごろへて宮にかへり給うけり。御送りしてとくいなむと思ふに、おほきみたまひ禄賜はむとて、つかはさざりけり。この馬頭心もとながりて、


 枕とて草ひき結ぶこともせじ
  秋の夜とだにたのまれなくに

とよみける。時はやよひのつごもりなりけり。みこ大殿籠らであかし給うてけり。かくしつゝまうで仕うまつりけるを、思ひのほかに、御髪おろし給うてけり。

 正月にをがみたてまつらむとて、小野にまうでたるに比叡の山のふもとなれば、雪いとたかし。しひて御室にまうでてをがみたてまつるに、つれづれといとものがなしくておはしましければ、やゝ久しくさぶらひて、いにしへのことなど思ひ出で聞えけり。さてもさぶらひてしがなと思へど、公事どもありければ、えさぶらはで、夕暮にかへるとて、
 

 忘れては夢かぞとおもふ思ひきや
  雪ふみわけて君を見むとは

とてなむ泣く泣く来にける。

 

 小野の里つながりで、小野小町は惟喬親王の乳母では?という説もありますが、今回はそこではなく、惟喬親王が、木地師の神様になっていることです。

 

 蛭谷(筒井公文所・筒井神社)や君ヶ畑(高松御所・大皇器地祖神社)につたわる惟喬親王「御縁起」には、およそつぎのような物語が記されている。
 

天皇の位を弟宮に譲られた親王は世の無常を儚み出家されたが、都にとどまることを憚り、大納言・藤原実秀(さねひで,のち小椋実秀)や堀川中納言らわずかな供をしたがえ東路をさして出発された。親王は琵琶湖をわたり、愛知川源流の小椋谷に安住の地を見つけ御所をもうけられた。その後は読経三昧の日々をすごしておられたが、ある日、親王法華経巻の紐を引くと軸が回ることから轆轤を考案、また、池でくるくる回る樫の殻を見て木椀をつくることを思いつかれた。そして、御所周辺の杣人たちに轆轤の技術を伝授された。これが木地師のはじまりである。」

 

 木地師とは?

 

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 木地師は惟喬親王の家来、太政大臣小椋秀実の子孫を称し、諸国の山に入り山の7合目より上の木材を自由に伐採できる権利を保証するとされる「朱雀天皇綸旨」の写しを所持し、山中を移動して生活する集団だった。実際にはこの綸旨は偽文書と見られているが、こうした偽文書をもつ職業集団は珍しくなかった。

 

 

 

 

 ある一定の時代の限られた書物の中に繰り返し出てくる人物の存在は、そのつながりの糸を追いかける楽しさと想像する楽しさを与えてくれる。

 貴族サロンの狭さを痛感するとともに、この木地師とのつながりが残されていることを考えると常に在野のその他大勢の人々が存在しており、その人々はおそらく文字も読み書きできないのだろうが、こうした人とのつながりを求め必要としていたのだということに驚かされる。

藤原山陰のこと

 夏に入ってから、『大日本史料』を筆写している。古典作品は古文にしても漢文にしても、とりあえず筆致や文体を身体で感じるために筆写している。古事記日本書紀続日本紀と筆写してきて、800年代後半から先、平家や太平記までの間隙を埋め合わせるのにどうしようと考えた。

 

 

大日本史料』(だいにほんしりょう)は、1901年明治34年)から現在まで刊行が続けられている日本史の史料集である。六国史(『日本書紀』から『日本三代実録』まで)の後、国史の編纂事業が行われていないため、その欠落部分を埋めるべく編纂が始まった。平安時代宇多天皇887年即位)から江戸時代までを対象とし、歴史上の主要な出来事について年代順に項目を立て、典拠となる史料を列挙する。

 

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 国立国会図書館デジタルアーカイブからPDFでダウンロードして書き写している。まあ一ヶ月かけても一年進むかどうかという分量なので、資料の豊富さだけでも勉強になる。超マイナーな書籍がバンバン出てくる。

 

 仁和4年2月4日

   中納言民部卿 藤原山陰 薨ず

 

 とあってから資料が大量にくっついている。編年体で史料を収集しているので、直前の記事は「待賢門の南壁が倒れた」記事である。

 

 「尊卑分脈」なども掲載されているので、系図的なことはよく分かる。父親は藤原高房、子どももたくさんいるよう。この辺でこの人は「藤原」のどの辺?と思い始めたのですかさず系図。基経の話はいずれと思っていますが、このあたりの方です。

 

 

 

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 山陰は大阪の総持寺を建立したことでも記載があります。総持寺は、

 

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包丁塚が有り、料理の神様として料理人からの信仰を受けている場所。

 

総持寺を開かれた山蔭卿は千日料理として有名で、庖丁道の祖として崇められています。庖丁式は毎年4月18日に行われますが、この庖丁式は古来宴席に於いて、当主が来賓を前にして座敷に俎板を設え、料理して見せたことに由来します。
現在行われている庖丁式の形体は室町時代からとも伝えられています。

 

 包丁道とは一体?

 

 四条流の起源は、藤原山蔭(四条中納言824年 - 888年)が、光孝天皇の勅命により庖丁式(料理作法)の新式を定めたことに由来すると伝えられている。朝廷の料理は宮内省に属す内膳司が司っていたが、山蔭は内膳職とは関係がなく、単に料理法や作法に通じた識者として指名されたものか。9世紀の段階で、から伝えられた食習慣・調理法が日本風に消化されて定着しつつあったと思われ、それらをまとめて故実という形で山蔭が結実させたものであろう。これにより、山蔭は「日本料理中興の祖」とされる。(ウィキ)

 

 文化人が料理の道に長けているのはいつの時代も同じでありますが。

 

四條司家食文化協会

 

という協会がございまして、山陰の子孫が脈々と現代につながっていることに驚きを隠せないのです。

 

四條流の祖とされる、四條中納言藤原朝臣山蔭卿<824-888>
この座像は大阪府茨木市総持寺(高野山真言宗)にある。
1200年の歴史があり、元侯爵の四條家は、藤原氏北家魚名流に属し、即ち大織冠鎌足の孫の房前を祖とします。中世には羽林家の家格の高い堂上公卿の家柄です。羽林家とは、大納言までの昇進が可能で、しかも近衛中、少将の兼任が出来る家格を有する家のことです。
四條家は永きに亘って栄えたため、それより分流したものとしては、中御家、六條、九條、紙屋河、
大宮、園池、油小路、八條、鷲尾、山科、西大路、櫛笥等の諸家がでています。
又、日蓮上人も四條家の後裔であり伊達政宗とは先祖が同じ魚名であります。他にも大勢傑出した人物がおります。例えば四條隆資卿は、足利尊氏が京都を侵せしとき、新田義貞氏と共に防いだ豪傑で、隆房卿は、鎌倉時代歌人で「四條大納言日記」が有名です。隆謌卿は維新の七卿落ちの一人、武芸に達し陸軍中将、侯爵を授けられ、貴族院議員に勅選されております。隆英卿は、高橋是清氏と盟友の間柄で、官吏から実業界に転じて安田生命保険会社、東京火災保険、帝国製麻各会社社長、九州電力浅野セメント、第一火災海上保険各会社取締役に任じ、なお貴族議員に二回選ばれております。

現在、第四十代当主隆貞卿は、昭和二十九年、初めて天皇陛下に相撲をお見せになり、今日の展覧相撲のきっかけをつくった人です。また、政治経済界の相談役として活躍し、故佐藤首相とは大変懇意でした。奥様の淑子夫人は、香道御家流の宗家三條西公正氏の長女で、皇太后様の姪にあたります。

四條司家は、日本料理の祖神と崇められている四條流の祖、四條中納言藤原朝臣山蔭卿から始まります。平安初期、第五十八代光孝天皇は料理に造詣深くあらせられ、自ら庖丁をとられて数々の宮中行事を再興されました。四條家に深い御縁のある天皇であられるので若き頃から、料理を作ったり味わったりなさるお相手に同じ趣味をもつ山蔭卿をお選びになりました。
山蔭卿は、天皇のお考えに従い、且つ自己の工夫も加えて、そこに平安料理道の基礎路線を確立しました。それが四條流庖丁、料理道の根源です。しかし山蔭卿は宮中の料理法を教えましたが、一般臣下に利用できる料理の普及と指導に重点を置いたのです。
そして、その頂点に庖丁儀式があります。足利時代の四條庖丁書に依れば、式庖丁は山蔭卿が鯉を庖丁したところから始まります。室町時代になると、四條流から四條園流、四條家園部流、武家料理を専門とする大草流、生間流、進士流等の流派が出ましたが、これらはすべて山蔭卿の流れを汲むものであり、四條家からは多くの庖丁名人が出ました。
そして、天皇家の料理から臣下の料理までを司る家として、司家の名称を頂きました。現在、第四十一代当主隆彦卿は、全国日本調理技能士名誉会長、四條司家料理故實御調所所長を任じて、日本料理の発展、故実の伝承の為、日夜、研鑽しております。

 

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 さて話は戻って、山陰のことです。総持寺には、山陰の縁起絵巻が収められており、

 

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 ようやくこの話の本題に入っていくわけです。

 この総持寺の縁起になっている話は、『今昔物語集』の中に掲載されている典型的な報恩譚です。しかし話の中身を追っていくと、報恩譚に加えて継子殺しの話が含まれています。

 

 今は昔、延喜の御代に中納言藤原山蔭という人がいた。この人には多くの子があったが、とりわけ一人の男の子をかわいがっていた。継母もまた、中納言以上にかわいがっていたので、父の中納言は喜んで、すっかり継母に任せて育てさせていた。

 そのうち、中納言太宰府の長官になって九州に下ったが、継母はなんとかこの子を殺したいと思って舟が鐘の御崎という所をすぎるときに、この子を抱いて、尿をさせるときのように抱え込んで海に投げ捨ててしまった。

 そして、しばらくしてから「若君が海に落ちこまれた」と泣き叫んだ。
中納言はこれを聞いて、海に身を投げんばかりに泣き惑い、「せめて子どもの死体でも取り上げて来い、それまでここに留る」と家臣達に命じ、小舟で探させた。
 家臣達は一晩中海を漕ぎまわったが見つけられずにいると、明け方波の上に白ばんだ小さな物が見え、漕ぎ寄せて見ると、その子が大笠のような亀の甲に乗っていたので、喜んで中納言に差し出した。中納言はあわてふためいて抱き取って喜び、泣きいってしまった。

 継母は内心意外なことだとは思っていたが、同じように泣き喜んでいたので、中納言もすっかり信用していた。
 こうして船を進めて行くうちに、中納言は疲れで昼間寝入ってしまったが、その夢に亀が船のそばに首を出して「以前に淀川の河口で鵜飼いに釣り上げられたのを助けていただいた亀です。なんとか御恩返しをと思っていましたが、継母が若君を海に落とし入れたのでお助けしました。これからこの継母に気をゆるしなさいませんように」と言って、海に首を引き入れたかと思うと夢がさめた。

 その後中納言が思い出してみると、夢の中で亀が言ったことに思いあたることがあったので、継母からこの子を離し、乳母をつけて自分の船に移した。九州に着いてからも、継母をこの子に近づけなかったので、継母も感づかれたと思い何も言わなくなった。

 中納言は任を終え、京に上ると、この子を法師にして名を如無とした。一度は失せた子なので、なきがごとしとつけたのである。如無は山科寺の僧となり、後には宇多天皇に仕えて、僧都にまで出世した。継母の方は中納言が亡くなると実子がなかったので、継子である僧都にやしなわれた。

 あの亀は、恩を報じただけではなく、人の命を助け夢見せなどをしたのだから、ただ者ではない。仏菩薩の化身だったのではないかと思われる。

今昔物語集巻19 第29話)

 

 まあ大凡こういう話なのですが、気になることがいくつかあるので話のついでに。

 一つはこういう継子譚は、他の説話にもよく出てくる話なのですが、だいたい継母には実子がおり、継子が邪魔になって、こういう行為に出るわけです。こういう話は、シンデレラなんかのように世界中にあるわけです。

 しかしこの話の異様なところは、この継母には子どもがいない、上に鐘の御崎などという流れの速い難所を選んで投げ捨てていることや、しばらくしてから騒ぎ始めるところなど、あきらかにヤバいやつなのです。

 亀が居なかったらどうなっていたことかということで、亀の尋常ならぬ力の話につながっていくので結構なのですが、なぜこの継母が如無を投げ捨てたのかということについては、いろいろと想像ができるように思います。

 

 もう一つは、「日本霊異記」など(「蟹と蛙との命を購いて放生し、現報に蟹に助けられし縁 第十二」)にもよく出てくるのですが、「放生」という行為ですね。

 

 放生とは

 

 仏教用語。捕らえられているなどを買いとって河・山放す慈悲行をいう。殺生反対

  その法会放生会という。

 

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源頼朝が行なった鶴岡八幡宮放生会由比ガ浜で千羽の鶴を放ったと言われる。

 

等が知られていますね。最近の台湾のニュースでは、

www.afpbb.com

 

などとあります。報恩を期待して行うものではなさそうですね。