惟喬親王のこと

古今和歌集を季節の移ろいとともに読み直している。いつも通り筆写しているのだけれども、

 

僧正遍昭によみておくりける

 

 桜花散らば散りなん散らずとて

             ふるさとの人の来ても見なくに

 

 春上の七十四番歌に行き着く。

 

 惟喬親王といえば、藤原氏との位争いに巻き込まれた悲運の皇子として語られている。歌を素直に写してみると何とも粘っこい感覚にとらわれてしまうのは彼のこうした経緯を知っているからかと思う。

 

ja.wikipedia.org

 

 惟喬親王のことは『平家物語』の巻八、「名虎」に詳しく、惟高の母親は紀名虎の娘で、対抗馬の惟仁親王藤原良房の娘が母親でした。文徳天皇は聡明な惟喬を愛しましたが、政界の実力者である良房の意向を無視できず、生後三か月の惟仁を皇太子にします。これが清和天皇となるわけです。

 

 そもそも平家物語の「名虎」は木曽義仲都落ちした平家が置いていった四宮を皇位に就ける話からの展開、宮の順序を飛び越えてというつながりと、惟仁親王清和天皇、つまり源氏の始祖であるという点からのピックアップなのです。

 

8月10日、木曾義仲 は朝日将軍という院宣を下された。越後の国を賜るも、嫌だというので伊予の国を、また、源行家 も備後の国を嫌がり、備前の国を賜った。
8月16日、平家一門 160人の官職が停止された。ただし、平時忠平信基平時実 の 3人は、安徳天皇 と 三種の神器を都へ還す役として、そのままにされた。
8月17日、平家は筑前の国の大宰府に到着。都から着き従って来ていた 菊池高直 が離脱し、肥後の自分の城に閉じこもって出てこなくなった。
8月20日、故高倉上皇の四の宮 尊成親王が、後鳥羽天皇 となった。摂政は 藤原基通 が返り咲き。

 
昔、文徳天皇の急死の際、たくさんの皇子の中から次の皇位を決めなければならなくなった。その中で、一の宮 惟喬(これたか)親王と二の宮 惟仁(これひと)親王に絞られたが、どちらにとも決め難たかった。とうとう「臣下では決められない。競馬と相撲で 2人の運をはかって決めよう」ということになった!
 
最初の競馬では惟仁親王が勝った。次の相撲では、惟喬親王家から名虎という力士が選出され、惟仁親王家からは能雄の少将という、背が低くいが、夢の御告げがあったという者が名乗り出た。名虎が優勢になるや、惟仁親王の母 染殿が「負けそうですわ、どうしましょう、どうしましょう」と慌てると、恵亮和尚は独鈷で頭を割って脳を砕き、護摩を焚いて祈祷した。すると、能雄が相撲に勝ったのである。こうして、惟仁親王皇位に就く。後の清和天皇である。皇位継承は、この場合だけは法力によるものかもしれないが、その他は皆、天照大御神* の計らいといわれている。
 

平家は筑紫にて、高倉上皇の四の宮が即位し、後鳥羽天皇 となったことを知る。

 

 とまあ名虎に関しては原文を読んで頂ければと思うのですが概略を。名虎の凄いのは、この恵亮和尚の独古で自分の頭を割って、脳髄を護摩と一緒に炊いて祈祷したという下りですが...。

 

 話を惟喬親王に戻します。

 惟喬親王は、在原業平と親交が深く、『曽我物語』にはそのあたり、つまり惟喬親王のその後の話が詳しく載せられています。この話はその後、歌舞伎の『倭仮名在原系図』に脚色されて用いられることとなります。

「御位争い」と皇位継承を話題にした作品を呼ぶのもこの話を代表的な話として考えているからです。

 

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歌舞伎用語案内

 

 

 天皇になれなかった悲運の皇子惟喬親王六歌仙在原業平と交野が原の別邸、“渚の院”で狩りをしたり歌詠みをして気をまぎらせました。

 惟喬親王の母静子と業平の妻が叔母・姪の関係もあつて、業平は惟喬親上の側近中の側近であつたようです。
 その時詠んだ在原業平の有名な歌が次の歌です。

  “世の中に 絶えて桜のなかりせば、春の心はのどけからまし”
    
 桜は藤原氏ですし、春の心は親王の心なのでしょうが、これ教材にもなってますね。

 

 惟喬親王はその後二十九歳で出家、隠棲します。『伊勢物語』八十三段ではそこに、業平が尋ねていく場面が描かれています。「小野の雪」ですね。高校の教材になってますね。

 

 

 むかし、水無瀬にかよひ給ひし惟喬の親王、れいの狩しにおはします供に馬頭なる翁つかうまつれり。日ごろへて宮にかへり給うけり。御送りしてとくいなむと思ふに、おほきみたまひ禄賜はむとて、つかはさざりけり。この馬頭心もとながりて、


 枕とて草ひき結ぶこともせじ
  秋の夜とだにたのまれなくに

とよみける。時はやよひのつごもりなりけり。みこ大殿籠らであかし給うてけり。かくしつゝまうで仕うまつりけるを、思ひのほかに、御髪おろし給うてけり。

 正月にをがみたてまつらむとて、小野にまうでたるに比叡の山のふもとなれば、雪いとたかし。しひて御室にまうでてをがみたてまつるに、つれづれといとものがなしくておはしましければ、やゝ久しくさぶらひて、いにしへのことなど思ひ出で聞えけり。さてもさぶらひてしがなと思へど、公事どもありければ、えさぶらはで、夕暮にかへるとて、
 

 忘れては夢かぞとおもふ思ひきや
  雪ふみわけて君を見むとは

とてなむ泣く泣く来にける。

 

 小野の里つながりで、小野小町は惟喬親王の乳母では?という説もありますが、今回はそこではなく、惟喬親王が、木地師の神様になっていることです。

 

 蛭谷(筒井公文所・筒井神社)や君ヶ畑(高松御所・大皇器地祖神社)につたわる惟喬親王「御縁起」には、およそつぎのような物語が記されている。
 

天皇の位を弟宮に譲られた親王は世の無常を儚み出家されたが、都にとどまることを憚り、大納言・藤原実秀(さねひで,のち小椋実秀)や堀川中納言らわずかな供をしたがえ東路をさして出発された。親王は琵琶湖をわたり、愛知川源流の小椋谷に安住の地を見つけ御所をもうけられた。その後は読経三昧の日々をすごしておられたが、ある日、親王法華経巻の紐を引くと軸が回ることから轆轤を考案、また、池でくるくる回る樫の殻を見て木椀をつくることを思いつかれた。そして、御所周辺の杣人たちに轆轤の技術を伝授された。これが木地師のはじまりである。」

 

 木地師とは?

 

okueigenji.co.jp

 

 木地師は惟喬親王の家来、太政大臣小椋秀実の子孫を称し、諸国の山に入り山の7合目より上の木材を自由に伐採できる権利を保証するとされる「朱雀天皇綸旨」の写しを所持し、山中を移動して生活する集団だった。実際にはこの綸旨は偽文書と見られているが、こうした偽文書をもつ職業集団は珍しくなかった。

 

 

 

 

 ある一定の時代の限られた書物の中に繰り返し出てくる人物の存在は、そのつながりの糸を追いかける楽しさと想像する楽しさを与えてくれる。

 貴族サロンの狭さを痛感するとともに、この木地師とのつながりが残されていることを考えると常に在野のその他大勢の人々が存在しており、その人々はおそらく文字も読み書きできないのだろうが、こうした人とのつながりを求め必要としていたのだということに驚かされる。