夏に入ってから、『大日本史料』を筆写している。古典作品は古文にしても漢文にしても、とりあえず筆致や文体を身体で感じるために筆写している。古事記や日本書紀、続日本紀と筆写してきて、800年代後半から先、平家や太平記までの間隙を埋め合わせるのにどうしようと考えた。
『大日本史料』(だいにほんしりょう)は、1901年(明治34年)から現在まで刊行が続けられている日本史の史料集である。六国史(『日本書紀』から『日本三代実録』まで)の後、国史の編纂事業が行われていないため、その欠落部分を埋めるべく編纂が始まった。平安時代の宇多天皇(887年即位)から江戸時代までを対象とし、歴史上の主要な出来事について年代順に項目を立て、典拠となる史料を列挙する。
国立国会図書館のデジタルアーカイブからPDFでダウンロードして書き写している。まあ一ヶ月かけても一年進むかどうかという分量なので、資料の豊富さだけでも勉強になる。超マイナーな書籍がバンバン出てくる。
仁和4年2月4日
中納言兼民部卿 藤原山陰 薨ず
とあってから資料が大量にくっついている。編年体で史料を収集しているので、直前の記事は「待賢門の南壁が倒れた」記事である。
「尊卑分脈」なども掲載されているので、系図的なことはよく分かる。父親は藤原高房、子どももたくさんいるよう。この辺でこの人は「藤原」のどの辺?と思い始めたのですかさず系図。基経の話はいずれと思っていますが、このあたりの方です。
山陰は大阪の総持寺を建立したことでも記載があります。総持寺は、
包丁塚が有り、料理の神様として料理人からの信仰を受けている場所。
総持寺を開かれた山蔭卿は千日料理として有名で、庖丁道の祖として崇められています。庖丁式は毎年4月18日に行われますが、この庖丁式は古来宴席に於いて、当主が来賓を前にして座敷に俎板を設え、料理して見せたことに由来します。
現在行われている庖丁式の形体は室町時代からとも伝えられています。
包丁道とは一体?
四条流の起源は、藤原山蔭(四条中納言、824年 - 888年)が、光孝天皇の勅命により庖丁式(料理作法)の新式を定めたことに由来すると伝えられている。朝廷の料理は宮内省に属す内膳司が司っていたが、山蔭は内膳職とは関係がなく、単に料理法や作法に通じた識者として指名されたものか。9世紀の段階で、唐から伝えられた食習慣・調理法が日本風に消化されて定着しつつあったと思われ、それらをまとめて故実という形で山蔭が結実させたものであろう。これにより、山蔭は「日本料理中興の祖」とされる。(ウィキ)
文化人が料理の道に長けているのはいつの時代も同じでありますが。
四條司家食文化協会
という協会がございまして、山陰の子孫が脈々と現代につながっていることに驚きを隠せないのです。
現在、第四十代当主隆貞卿は、昭和二十九年、初めて天皇陛下に相撲をお見せになり、今日の展覧相撲のきっかけをつくった人です。また、政治経済界の相談役として活躍し、故佐藤首相とは大変懇意でした。奥様の淑子夫人は、香道、御家流の宗家三條西公正氏の長女で、皇太后様の姪にあたります。
四條司家は、日本料理の祖神と崇められている四條流の祖、四條中納言藤原朝臣山蔭卿から始まります。平安初期、第五十八代光孝天皇は料理に造詣深くあらせられ、自ら庖丁をとられて数々の宮中行事を再興されました。四條家に深い御縁のある天皇であられるので若き頃から、料理を作ったり味わったりなさるお相手に同じ趣味をもつ山蔭卿をお選びになりました。
山蔭卿は、天皇のお考えに従い、且つ自己の工夫も加えて、そこに平安料理道の基礎路線を確立しました。それが四條流庖丁、料理道の根源です。しかし山蔭卿は宮中の料理法を教えましたが、一般臣下に利用できる料理の普及と指導に重点を置いたのです。
そして、その頂点に庖丁儀式があります。足利時代の四條庖丁書に依れば、式庖丁は山蔭卿が鯉を庖丁したところから始まります。室町時代になると、四條流から四條園流、四條家園部流、武家料理を専門とする大草流、生間流、進士流等の流派が出ましたが、これらはすべて山蔭卿の流れを汲むものであり、四條家からは多くの庖丁名人が出ました。
そして、天皇家の料理から臣下の料理までを司る家として、司家の名称を頂きました。現在、第四十一代当主隆彦卿は、全国日本調理技能士名誉会長、四條司家料理故實御調所所長を任じて、日本料理の発展、故実の伝承の為、日夜、研鑽しております。
さて話は戻って、山陰のことです。総持寺には、山陰の縁起絵巻が収められており、
ようやくこの話の本題に入っていくわけです。
この総持寺の縁起になっている話は、『今昔物語集』の中に掲載されている典型的な報恩譚です。しかし話の中身を追っていくと、報恩譚に加えて継子殺しの話が含まれています。
今は昔、延喜の御代に中納言藤原山蔭という人がいた。この人には多くの子があったが、とりわけ一人の男の子をかわいがっていた。継母もまた、中納言以上にかわいがっていたので、父の中納言は喜んで、すっかり継母に任せて育てさせていた。
そのうち、中納言は太宰府の長官になって九州に下ったが、継母はなんとかこの子を殺したいと思って舟が鐘の御崎という所をすぎるときに、この子を抱いて、尿をさせるときのように抱え込んで海に投げ捨ててしまった。
そして、しばらくしてから「若君が海に落ちこまれた」と泣き叫んだ。
中納言はこれを聞いて、海に身を投げんばかりに泣き惑い、「せめて子どもの死体でも取り上げて来い、それまでここに留る」と家臣達に命じ、小舟で探させた。
家臣達は一晩中海を漕ぎまわったが見つけられずにいると、明け方波の上に白ばんだ小さな物が見え、漕ぎ寄せて見ると、その子が大笠のような亀の甲に乗っていたので、喜んで中納言に差し出した。中納言はあわてふためいて抱き取って喜び、泣きいってしまった。
継母は内心意外なことだとは思っていたが、同じように泣き喜んでいたので、中納言もすっかり信用していた。
こうして船を進めて行くうちに、中納言は疲れで昼間寝入ってしまったが、その夢に亀が船のそばに首を出して「以前に淀川の河口で鵜飼いに釣り上げられたのを助けていただいた亀です。なんとか御恩返しをと思っていましたが、継母が若君を海に落とし入れたのでお助けしました。これからこの継母に気をゆるしなさいませんように」と言って、海に首を引き入れたかと思うと夢がさめた。
その後中納言が思い出してみると、夢の中で亀が言ったことに思いあたることがあったので、継母からこの子を離し、乳母をつけて自分の船に移した。九州に着いてからも、継母をこの子に近づけなかったので、継母も感づかれたと思い何も言わなくなった。
中納言は任を終え、京に上ると、この子を法師にして名を如無とした。一度は失せた子なので、なきがごとしとつけたのである。如無は山科寺の僧となり、後には宇多天皇に仕えて、僧都にまで出世した。継母の方は中納言が亡くなると実子がなかったので、継子である僧都にやしなわれた。
あの亀は、恩を報じただけではなく、人の命を助け夢見せなどをしたのだから、ただ者ではない。仏菩薩の化身だったのではないかと思われる。
(今昔物語集巻19 第29話)
まあ大凡こういう話なのですが、気になることがいくつかあるので話のついでに。
一つはこういう継子譚は、他の説話にもよく出てくる話なのですが、だいたい継母には実子がおり、継子が邪魔になって、こういう行為に出るわけです。こういう話は、シンデレラなんかのように世界中にあるわけです。
しかしこの話の異様なところは、この継母には子どもがいない、上に鐘の御崎などという流れの速い難所を選んで投げ捨てていることや、しばらくしてから騒ぎ始めるところなど、あきらかにヤバいやつなのです。
亀が居なかったらどうなっていたことかということで、亀の尋常ならぬ力の話につながっていくので結構なのですが、なぜこの継母が如無を投げ捨てたのかということについては、いろいろと想像ができるように思います。
もう一つは、「日本霊異記」など(「蟹と蛙との命を購いて放生し、現報に蟹に助けられし縁 第十二」)にもよく出てくるのですが、「放生」という行為ですね。
放生とは
仏教用語。捕らえられている魚や鳥などを買いとって河・山に放す慈悲行をいう。殺生の反対。
源頼朝が行なった鶴岡八幡宮の放生会。由比ガ浜で千羽の鶴を放ったと言われる。
等が知られていますね。最近の台湾のニュースでは、
などとあります。報恩を期待して行うものではなさそうですね。